「歴史」とのつきあい方
同じことが歴史についても言えます。小さい頃から本で読んだり、テレビや映画や見たりして親しんだ源平の戦いや戦国時代、幕末から明治維新の話はどきどきわくわくするイマジネーションの広がる世界であったのに、学校の授業で教わる歴史は、淡々と出来事を追っていくだけで、何の感動も感銘も受けることのない、従って何も学ぶことのないものでした。
私が学校で歴史を学んだ頃、歴史はいわゆる唯物史観に染められていました。その視点においては人に対するリスペクト、特に卓越した人に対する賞賛や敬意が否定されています。そこでは人の努力や挑戦、そして覚悟や決断が羽毛のように軽く扱われています。
曰く、人はみな平等。だから英雄というのは存在しない。
曰く、歴史上の出来事はすべて必然的に起こったことであり、歴史上の人物たとえば信長がいなくても他の人が同じことをしていたはず。結局そういう人がいなくても歴史は同じように推移していたはず。云々。
そんな意識で教える歴史が面白いわけがありません。歴史を学ぶというのは、過去の出来事を学ぶ以上に、人類がそして私たちの祖先が、どういう時代を生き、その状況で何をどう考えどう行動してきたのか、そしてそれは歴史認識として是とされるのか否とされるのか、否とされるならばその理由は何か? そんなことを学ぶ場です。そこには感動もあれば感銘もあります。自分の人生を変えるほど影響を受ける人物や生き方に出会うこともあるでしょう。
とどのつまり、様々な状況や時代の中で人としてどう考えどう生きてきたかを知ることにこそ歴史を学ぶ意味があるのです。
歴史を学ぶとは人物を学ぶことだと気づかせてくれたのは司馬遼太郎さんでした。
太平洋戦争の現場に身をおき、機能不全になった陸軍という巨大組織の中で数々の無責任で馬鹿馬鹿しい行動を目のあたりにして、日本人とは昔からこんなに愚かでつまらない人種だったのだろうか、と大きな疑問を持った司馬さんは、過去に生きた日本人の生き方探しを始めます。
そういう視点で歴史を紐解いていった司馬さんはそこに珠玉のような数々の先人たちを見つけていきました。私たちはそんな先人たちと司馬さんの物語の中で出会うことができます。
歴史をそしていま生きている世の中を平板でつまらなものと考えるワナから救ってくれるオアシスがそこにはあります。
日本の歴史を学ぶ中で培った歴史認識は、世界の歴史を俯瞰するときにも役に立ちます。歴史を知り、過去に生きた人物を語ることができれば、海外に出かけた時にも会話の幅が広がります。歴史認識を知りあうことでお互いの関係や信頼がぐっと深まることがあります。
歴史に学ぶことはまだまだありそうです。

