伝える力
コミュニケーションの力は相手にどれだけ伝わるか、によって決まります。
そもそも相手に伝わらなければコミュニケーションにはなりません。
ものを書いたり、人前で話をしたりする場合は、相手が複数になりますから想定される読者や聞き手の平均像に合わせながら話を進めざるをえませんが、1対1の対話の場面では、相手に合わせて相手がわかる言葉を使って伝えるという心がけが必要です。
子供ともうまくコミュニケーションが取れる人は、子供が理解できる語彙と概念の範囲内で言葉を選んで話をします。コンピューターやITになじみのない世代の人とのコミュニケーションも同じです。相手に分からない言葉や概念を使って話をしても受け手には何も伝わりません。続きを読む
そもそも相手に伝わらなければコミュニケーションにはなりません。
ものを書いたり、人前で話をしたりする場合は、相手が複数になりますから想定される読者や聞き手の平均像に合わせながら話を進めざるをえませんが、1対1の対話の場面では、相手に合わせて相手がわかる言葉を使って伝えるという心がけが必要です。
子供ともうまくコミュニケーションが取れる人は、子供が理解できる語彙と概念の範囲内で言葉を選んで話をします。コンピューターやITになじみのない世代の人とのコミュニケーションも同じです。相手に分からない言葉や概念を使って話をしても受け手には何も伝わりません。続きを読む
地球温暖化
毎日のニュースや特集記事などでも関連する話がみあたらない日がないほど、世界中で大きな関心事になっている地球の温暖化。短いコラムでお伝えすることはできないほど大きなテーマではあります。
アル・ゴア氏が訴える「不都合な真実」は講演や映画や本で広く世界に発信され、この地球上で間違いなく進んでいる温暖化と、それによる今後の地球とその上に住む私たち人類を含めた生物に与える影響をショッキングなまでに伝えています。
地球が暖かくなっていることは、昔に比べて雪の降る日や霜が降りる日が少なくなったり、夏の異常なまでの暑さなどによって、私たちも実感するところまで来ています。
温暖化による大きな災厄は2つあります。
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アル・ゴア氏が訴える「不都合な真実」は講演や映画や本で広く世界に発信され、この地球上で間違いなく進んでいる温暖化と、それによる今後の地球とその上に住む私たち人類を含めた生物に与える影響をショッキングなまでに伝えています。
地球が暖かくなっていることは、昔に比べて雪の降る日や霜が降りる日が少なくなったり、夏の異常なまでの暑さなどによって、私たちも実感するところまで来ています。
温暖化による大きな災厄は2つあります。
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ポルシェ
多くの人にとって日常生活では関わりはなくても憧れの存在であるポルシェ。
卓越した存在感と走行性能、そして希少性からくる価値は数多くのブランドの中でもずば抜けています。
そのポルシェ社がフォルクスワーゲングループの過半の株式を取得し、子会社化するというニュースが経済誌の紙面で流れました。
90年代以降、好調に売上を伸ばしてきたとはいえ、年間の生産台数は8万台あまりと、多くの自動車メーカーが数百万台規模で生産している数と比べると、とても少ないという感じがします。そのポルシェ社がグループ全体で500万台以上生産するフォルクスワーゲングループを子会社にするというのですから驚きました。
小が大を、というのにも限度があるんじゃないか、などと私たちの感覚では思ってしまいます。どうしてこういうことが起こりえたのでしょうか?続きを読む
卓越した存在感と走行性能、そして希少性からくる価値は数多くのブランドの中でもずば抜けています。
そのポルシェ社がフォルクスワーゲングループの過半の株式を取得し、子会社化するというニュースが経済誌の紙面で流れました。
90年代以降、好調に売上を伸ばしてきたとはいえ、年間の生産台数は8万台あまりと、多くの自動車メーカーが数百万台規模で生産している数と比べると、とても少ないという感じがします。そのポルシェ社がグループ全体で500万台以上生産するフォルクスワーゲングループを子会社にするというのですから驚きました。
小が大を、というのにも限度があるんじゃないか、などと私たちの感覚では思ってしまいます。どうしてこういうことが起こりえたのでしょうか?続きを読む
ベルリン
久しぶりにベルリンを訪問しました。前回訪れたのは、東西を分断した壁がモニュメントのように並べられていたポツダム広場に、ソニーセンターができて新名所になったばかりの頃でしたから、2000年の秋だったと思います。
そのころはまだ東西分断の傷跡がいたるところに残り、旧東ベルリンの「復旧」もまだ道半ばで、くすんだ街並みがくっきりと残っていたのですが、今回訪れて驚いたのは、街の復興がほぼ進み、首都としての輝きを取り戻していたことです。
ソニーセンターができたばかりの頃は、まわりに大きな建物は何もなく、大きな「空き地」にどっかりとその威容を誇っていましたが、今ではまわりに高さを競うようにどれも世界的な建築家の設計による近代的なビルが立ち並んでいました。8年足らずでこの変貌ですから驚きです。
カタカナ
日本語では、外来語はカタカナで表記されます。
カタカナで日頃なれ親しんだ言葉は、英語を身につけていくうえでも覚えやすく、すんなりと頭に入りますが、英語の本来の意味とは違う意味になったカタカナも数多くありますので注意が必要です。
英語が日本に入って来た時に微妙にその意味がすり替わったもの、最初に聞いた人の勘違いから全く別の意味として伝わったと推測されるもの、などがあります。
最近の例ではホームページ。英語ではウェブサイト(Web site)です。
”Home page”はウェブサイトのホームとなるページ、日本ではトップページと呼ばれるページを指します。英語では「ウェブサイトをご参照ください」というように表現します。
ex. “You can find the detailed information on our web site.”
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カタカナで日頃なれ親しんだ言葉は、英語を身につけていくうえでも覚えやすく、すんなりと頭に入りますが、英語の本来の意味とは違う意味になったカタカナも数多くありますので注意が必要です。
英語が日本に入って来た時に微妙にその意味がすり替わったもの、最初に聞いた人の勘違いから全く別の意味として伝わったと推測されるもの、などがあります。
最近の例ではホームページ。英語ではウェブサイト(Web site)です。
”Home page”はウェブサイトのホームとなるページ、日本ではトップページと呼ばれるページを指します。英語では「ウェブサイトをご参照ください」というように表現します。
ex. “You can find the detailed information on our web site.”
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Plain English
日本語でも同じことですが、どんな言葉でも同じことを伝えるのに、わかりやすい表現もあれば、難解な表現もあります。
難しい概念や理論を伝えるためには、どうしても難しく言葉を使わなければ伝えられないということはあります。でもアタマでっかちな学生にありがちなように、簡単な内容をあえて難しく表現しているなと思うこともあります。
英語でも同じことを伝えるのに、なじみのある単語を使ったわかりやすい言い回しもあれば、普段は見かけないような単語が続出するわかりにくい表現もあります。
英語が国際的なコミュニケーションの道具として広く使われている現在、できるだけ平易な単語でわかりやすく表現しようという大きな流れがあります。英語やそのボキャブラリー(語彙)のレベルが様々な人がいる場では、できるだけ多くの人がわかるように話をしましょう、というわけです。そういう英語を”Plain English”とか”Simple English”といいます。
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難しい概念や理論を伝えるためには、どうしても難しく言葉を使わなければ伝えられないということはあります。でもアタマでっかちな学生にありがちなように、簡単な内容をあえて難しく表現しているなと思うこともあります。
英語でも同じことを伝えるのに、なじみのある単語を使ったわかりやすい言い回しもあれば、普段は見かけないような単語が続出するわかりにくい表現もあります。
英語が国際的なコミュニケーションの道具として広く使われている現在、できるだけ平易な単語でわかりやすく表現しようという大きな流れがあります。英語やそのボキャブラリー(語彙)のレベルが様々な人がいる場では、できるだけ多くの人がわかるように話をしましょう、というわけです。そういう英語を”Plain English”とか”Simple English”といいます。
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「歴史」とのつきあい方
学校で習う英語は退屈で無機質で、どんなに面白い物語でも授業で一字一句いじくりまわしていると、つまらない作品に見えてきたものです。
同じことが歴史についても言えます。小さい頃から本で読んだり、テレビや映画や見たりして親しんだ源平の戦いや戦国時代、幕末から明治維新の話はどきどきわくわくするイマジネーションの広がる世界であったのに、学校の授業で教わる歴史は、淡々と出来事を追っていくだけで、何の感動も感銘も受けることのない、従って何も学ぶことのないものでした。
私が学校で歴史を学んだ頃、歴史はいわゆる唯物史観に染められていました。その視点においては人に対するリスペクト、特に卓越した人に対する賞賛や敬意が否定されています。そこでは人の努力や挑戦、そして覚悟や決断が羽毛のように軽く扱われています。
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同じことが歴史についても言えます。小さい頃から本で読んだり、テレビや映画や見たりして親しんだ源平の戦いや戦国時代、幕末から明治維新の話はどきどきわくわくするイマジネーションの広がる世界であったのに、学校の授業で教わる歴史は、淡々と出来事を追っていくだけで、何の感動も感銘も受けることのない、従って何も学ぶことのないものでした。
私が学校で歴史を学んだ頃、歴史はいわゆる唯物史観に染められていました。その視点においては人に対するリスペクト、特に卓越した人に対する賞賛や敬意が否定されています。そこでは人の努力や挑戦、そして覚悟や決断が羽毛のように軽く扱われています。
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